パウリスタ界隈ガイド
2005年5月
ブラジル日本商工会議所コンサルタント部会
ジェトロ・サンパウロ
アヴェニーダ・パウリスタは、言うまでもなくサンパウロ市のビジネスの中心地である。
ブラジルの有力企業、外資系企業、日本企業などの多くが、この通りの界隈に集中している。しかしながら、意外にこの通りの由来、どのような建物、通り、ショッピング・センター、文化センターの存在等について知られていない。パウリスタには、ASSOCIACAO PAULISTA VIVA(パウリスタ・ヴィーヴァ協会、www.associacaopaulistaviva.org.br)というNGOがあり、そこが最近発行したMAPA TURISTICO DA AVENIDA PAULISTA(パウリスタ通り観光地図)を発行している。この地図他の資料を参考にしてこのガイドを作成した。また通りの由来は、Panda Books 社発行の「1001 Ruas de Sao Paulo 」とhttp://www.dicionarioderuas.com.br/を参照にした。パウリスタ通り界隈に事務所や住宅を構える日本進出企業、コローニァ企業の皆様のお役に立てれば幸いである。
- パウリスタ通りの由来
- パウリスタ・ヴィーヴァ協会(Associacao Paulista Viva)
- パウリスタ通り界隈には何があるのか
- 映画館
- 文化施設
- SHOPPING CENTERS
①SHOPPING PAULISTA Rua 13 de Maio,1974 4館
②GEMINI 807 2館
③>TOP CINE 854 2館
④BRISTOL 2064 7館
⑤>CINEARTE 2073 2館左側(奇数番号)
①CASAS DAS ROSAS 37
②SESC PAULISTA 119
③INSTITUTO ITAU CULTURAL 149
④ESPACO CULTURAL W. CHURCHILL 807
⑤ESPACO CULTURAL CITIBANK 1111
⑥CENTRO CULTURAL FIESP 1313
⑦ESPACO CULTURAL CONJ. NACIONAL 2073右側(偶数番号)
①CENTRO CULTURAL SANTA CATARINA 200
②FUNDACAO GASPER LIBERO(TEATRO GAZETA) 886
③ESPACO CULTURAL BANCO REAL 1374
④GALERIA PARK AVENIDA 1776
⑤ESPACO CULTURAL BANCO DO BRASIL 1804
⑥ESPACO CULTURAL BANESPA 2064
⑦ESPACO CULTURAL SAFRA 2100①SHOPPING VENEZIA 右側 486
②EDIFICIO WINSTON CHURCHILL 左側 807
③TOP CENTER 右側 854
④STAND CENTER 右側 1098
⑤CENTER 3 右側 2064 - パウリスタ通りと交差する通り、平行する通りの由来
番号の少ない方から多い方に向かっての通り、広場につき紹介する。
(交差する通り)
Oswaldo Cruz, Praca
パライソ、セ。Oswaldo Goncalves Cruzが本名。1872年サンパウロ州生まれ、医者。ペストや黄熱病との闘いに貢献があった。彼の提案により天然痘のワクチン投与が義務付けられた。ブラジル文学学会、レジョン・ド・ヌール勲章受賞。リオ州ペトロポリ市長を歴任。
Doutor Rafael de Barros, Rua 左側
パライソ。1835年、イットウーに生れる。サンパウロ市会議員、ジョッキー・クラブの創設者の1人。
Treze de Maio, Rua 右側
べラ・ヴィスタ。1888年5月13日、黒人奴隷を廃止した有名なアウレア法を署名した日
Leoncio de Carvalho, Rua 左側
パライソ。1847年リオに生まれる。弁護士、法学教授、自由党に入党、サンパウロ大学法学部長、最初のサンパウロ州法起草者の一人。
Teixeira da Silva, Rua 左右
べラ・ヴィスタ、dr. Antonio Teixeira da Silvaが本名。1886年ラルゴ・サンフランシスコの法学部で学ぶ。1891年司書、その後弁護士として活躍。
Maria Figueredo,Rua 左側
パライソ。その地域の大地主だったJose Borges de Figueredo氏の妻に敬意をひょうしたもの。
Carlos Sampaio, Rua 右側
べラ・ヴィスタ。リオの市長、リオ・デ・ジャネイロポリテクニコの教授。1875年から1930年にかけてリオの都市計画の責任者。
Manuel da Nobrega, Rua 右側
パライソ。1517年、ポルトガルに生まれる。イエズス会の使徒。ポルトガルから派遣された最初の総督であるTome de Sousaに同行してブラジルに渡る。彼の請願により、最初の司教管区が設立される。
Brigadeiro Luis Antonio, Avenida 左右
ジャルジン・パウリスタ。本名Luis Antonio de Souza Queiros。1746年ポルトガル生まれ。ブラジルに移民、イトゥーの歩兵隊に入隊、その後、大尉、中佐、大佐と昇進し、1818年准将に昇格。後、商人Santa Casa等に多額の資金を寄贈。
Joaquim Eugenio de Lima, Alameda 左右
ジャルジン・パウリスタ。1845年ウルグアイで生まれる。パウリスタ通りを考え、つくった人。
Campinas,Alameda 左右
べラ・ヴィスタ。サンパウロ州の都市。1773年6月17日に建設される。当初は、Nossa Senhora da Conceicao de Campinasと呼ばれたが、その後Sao Carlosに改名され、1842年都市に昇格し、Campinasとなった。
Pamplona, Rua 左右
べラ・ヴィスタ、セ。本名Jose Coelho Pamplona。商人。首府の大タバコ工場のオーナー。現在のパンプロ-ナ通り及びその近郊の大地主であった。
Rio Claro, Rua 右側
べラ・ヴィスタ。サンパウロ州の都市からとっている。元々1826年に建設され、当初Sao Joao do Riberao Claro de Piracicabaであったが、町の拡大と共に名称が変わり、1905年に今のRio Claroになった。
Itapeva, Rua 右側
べラ・ヴィスタ。トゥピー・グアラニー族の言葉で、Pedra Chata(平たい石)を意味する。
Casa Branca, Alameda 左側
セルケイラ・セザル。本名Vicente Ferreira de Sylos Pereira(カサ・ブランカ男爵)、1810年生れ,軍人、若くしてサンパウロに来て、カサ・ブランカに定住。慈善家として有名。
Nove de Julho, Avenida 左右
べラ・ヴィスタ。1932年7月9日に起こった「立憲革命」として知られた軍の運動の蜂起の日。
Peixoto Gomide, Rua 左右
ジャルジン・パウリスタ。1849年サンパウロに生まれる。法学者、アンパロ市市会議員、後上院議長。
Ministro Rocha Azevedo, Alameda 左右
ジャルジン・パウリスタ。1864年ミナスジェライス生まれ。法学者、当時のいくつかの新聞に協力。サンパウロ市長、法務大臣。
Frei Caneca, Rua 右側
セルケイラ・セサル、セ。本名Frei Joaquim do Amor Divino、1779年レシフェに生れる。説教者、政治家、ジャーナリスト、詩人。マラニョンの司教。帝国に対する数々の反乱に参加。1824年の革命の首謀者だったため、1825年銃殺死刑となった。
Pe.Joao Manoel, Rua 左側
セルケイラ・セサル、ピニェイロ。本名Padre Joao Manuel de Carvalho。帝政時代の共和派の議員。皇帝のいる議会で「Viva a Republica」と叫んだことで有名。
Augusta,Rua 左右
コンソラソン。通りの由来は明確ではない。2説あり、一つは、その地域の地主であったMaria Augustaから来たという説、もう一つは、1850年に生まれた作曲家Maria Augusta Leopoldinaから来たという説。
Haddock Lobo, Rua 左右
セルケイラ・セサル。1817年ポルトガルで生れる。医者,若くしてブラジルに渡る。帝国医学アカデミー会員、リオ市会議員、平行6面体の敷石歩道を導入した。
Bela Cintra, Rua 左右
コンソラソン、セ。古い荘園からとったもの。その場所がリスボンの郊外にあるシントラの町に良く似ているところから、土地所有者が、そこにDivino Espiritu Santo de Bella Cintraを称え小教会を建設したのがその由来。その教会は、今日Rua Frei Canecaにある。
Reboucas, Avenida
ジャルジン・パウリスタ。本名、Antonio Pereira Reboucas Filho、軍のエンジニア-、クリチバ-パラナグア間の鉄道建設の責任者。
Consolacao, Rua de
コンソラソン。1810年から命名されている。たぶんNossa Senhora da Consolacaoから来たものと推察される。(平行する通り)
左側
Santos, Alameda
セルケイラ・セサル。サンパウロ州第2の都市サントスに敬意を表して命名。
Jau, Alameda
セルケイラ・セサル。サンパウロの都市、名前の由来は、バンデイランテスがこの地の川でjahuと呼ばれる魚を釣っていたことから来る。意味するところは、「暴飲暴食する魚」ないしは、「反抗的な子供の身体」
右側
Cincinato Braga, Rua
べラ・ヴィスタ。 ピラカイバに1864年に生れる。法学者、州議員、連邦議員、ブラジル中央銀行総裁、多くの作品の著者。
Carlos de Pinhal, Alameda
サンパウロ州の都市からとったもの。サントスはコーヒーの積出港として有名でその名をとったが、SaoCarlos de Pinhalは,技術の町及びコーヒーの生産で潤った裕福な町として重要であった。
Luis Coelho, Rua
この通りは、1890年代にポルト・マルチン子爵であるJose Coelho Pamplona氏所有の小農園にあった。Luis Coelho Pamplona氏は、Jose Coelho氏の息子で、ポルトガルで学び、その地域の不動産、コーヒー園、牧場を持つ大地主であった。 - パウリスタ通りにある名所・旧跡
- SHPPING PAULISTA 右側
- CASAS DE ROSAS(バラの家)左側
- HOSPITAL SANTA CATARINA(サンタ・カタリ-ナ病院)右側
- ITAU CULTURAL(イタウ・クルトゥラル)左側
- INSTITUTO PASTEUR(パストゥール研究所)左側
- FUNDACAO GASPER LIBERO(ガスペル・リベロ財団) 右側
- CIESP/FIESP(サンパウロ州産業センターサンパウロ州/産業連盟)左側
- PARQUE TRIANON(トリアノン公園)左側
- MUSEU DE ARTE DE SAO PAULO(MASPサンパウロ美術館)右側
- CONJUNTO NACIONAL 左側
- CAPELA E COLEGIO SAO LUIS 右側
1989年オープン。Rua 13 de Maioに位置する。以前は、SEARSのデパートがあった。
Oswaldo Cruz広場とLeoncio de Carvalho通りの間にある。1935年、建築家Ramos de Azevedo(サンパウロの多くの公共建築を建設、Teatro Municipal等)が自分の娘のために建設した。1985年歴史遺産に指定、文化的行事に使われている。
Oswaldo Cruz広場と Teixeira da Silva通りの間にある。1906年、シスター・Beata Heinrichにより、 Walter Seng博士と Dom Miguel Kruseのサポートを受け設立。サンパウロ市で最も古い民間病院。ハイテク機器を保有し、患者に対して愛情を持って接することで知られている。サンタ・カタリ-ナ修道会からの寄付を受けている。
Teixeira da Silva通りとMaria Figueredo通りの間に位置する。ブラジルで2番目の民間銀行。企業の社会的責任活動を活発に展開。とりわけ文化面の貢献はめざましい。このビルの中の2階と地価、2階で頻繁に各種の美術展を開催するほか、TEATROも持っている。
Maria Figueredo通りと Manoel da Nobrega通りの間に位置する。パウリスタ通りの企業家や商人の財政的負担により、1903年に設立。公共衛生に関わる人材の育成と狂犬病等の動物検疫に従事している。
Joaquim Eugenio de Lima通りと Alameda Campinas通りの間に位置する大きな建物。1958年から1962年にかけて建設された。ガスペル・リベロ財団は、愛国的、文化的、ジャーナリスト的使命を持っている。このビルの中には、TV GAZETAやRADIO GAZETA、テアトロ、映画館がある他、ブラジルでも有名なコミュニケーション学部がある。
Pamplona通りと Casa Branca通りの間に位置する極めてユニークな建物。CIESPは、1928年に創設され、3年後の1931年にFIESPが設立された。サンパウロ州の企業家を代表する組織。サンパウロのビジネスの中心地であるパウリスタ通りが選ばれ、1979年にオープンした。
Casa Branca通りと Peixoto Gomide通りの間に位置する公園。1892年にフランス人建築家Paul Villonによって設計され、Villon Parkとしてオープン。現在の正式の名前は、Parque Tenente Siqueira Camposであるが、通称 Parque Trianonと呼ばれている。公園は、午前6時から午後6時までオープンしている。日曜日には、民芸品市が開催される。Guarda Civil Metropolitanaの事務所もある。
誰もが知っているサンパウロのシンボル。1957年建築家Lina Bo Bardiにより設計され、1968年に完成した。74メートルに及ぶコンクリートのオープン・スペースは世界でも最大級。西洋絵画の美術館としては、ラテンアメリカ一を誇る。日曜日には、MASPのオープンスペースに骨董市がたつ。
Joao Manoel通りとAugusta通りの間にある。1950年代にパウリスタ通りの最初の商業コンプレックスとして誕生。ニューヨークの5番街を目指した。60年代には、Cine Astor 、Cine Rioや Cine Fasanoがあり、サンパウロのエリート層の溜まり場であった。70年代、80年代には衰退し、当初の性格をがらりと変え、1984年に活性化に着手。広いギャラリー、壮大なテラス、映画館、図書館、展示場などがあり、今日でもサンパウロっ子や観光客が集まるスポットである。
Haddock Lobo通りと Bela Cintra通りの間に位置する。この学校は、元々1867年にイエズス会神父によりItuで設立され、1918年にサンパウロに移転した。バランスの取れた構造で、シチズンシップを導入し、他の教育機関からモデルとして賞賛される学校となっている。
- パウリスタ通りにある彫刻
1890年に建設される。この名前は、Joaquim Eugenio de Limaが命名。1891年12月8日に厳粛にセレモニーが催された。全長2、800メートル、幅30メートルのこの通りは、エレガントかつ裕福な人々の住宅地として特別に設計された。サンパウロでアスファルト化され、並木のある初めての公道。イルミネーションもされていた。
その昔、カーニヴァルの時期には、パウリスタ通りで、サンバの踊りや行列、山車等が行進した。その後、1940年に、AVENIDA BRASILに移り、20年間続いた。
現在では、Sao Silvestreマラソン大会は、国際的にも有名になっているが、その起源は、1924年に遡り、ジャーナリストGasper Liberoが保有していたA GAZETA紙が主催して始まったものである。
非営利のNGOで、一群の企業家によって、80年代後半に設立され、サンパウロのシンボルであるパウリスタ通りを保全し、この地区を訪問したり働いたりする多くの人々の生活の質の向上を図ることを目的としている。この活動は、パウリスタ・ヴィーヴァ・コミッションとして発足し、1996年には、今のパウリスタ・ヴィーヴァ協会になった。2003年には、OSCIP(公共利益を目的とする民間組織)として法務省により認定される。この協会は、パウリスタ通りで行われる各種イベントの組織、訴訟問題、シチズンシップ、治安、環境保全、地域の改善のための仕事を行っている。サンパウロには、2002年より、 SUPEDANEOSと呼ばれる移動交番ボックスがあるが、これは、パウリスタ・ヴィーヴァ協会とサンパウロ州軍警察が協力して、2002年から始めたもので、近代的武器によって武装し、訓練を受けた世界でも最初の試みの1つということである。移動交番を見ると協会のマークがあり、協会の所有物と書かれている。
(左側にあるもの)
①Indio Pescador(インジオの漁師、ツピー族のインジオ) Francisco Leopoldo e Silva作 Oswaldo Cruz広場、インジオがかがんで魚を今にも採ろうとしている像でなかなか立派な像。
②Sem Titulo(題名なし) Amilcar Castro作 Teixeira da Silva通り角
③O Caixeiro (路上販売人) Domenico Calabrone作 Teixeira da Silva通りと Naria Figueredo通りの間にあるサンパウロ州商業連盟の前。1988年にイベロアメリカ商業会議所連盟の総会時に建立された。トラさんのようなイメージ。
④Homem Aramado( 針金男 ) 作者不明 Joaquim Eugenio de Lima通りと Campinas通りの間にある。
⑤Sem Titulo (題名なし) Franz Krajcberg作 Campinas通りと Pamplona通りの間。
⑥Passaro Rocca(ロッカ鳥) Francisco Brennand作 メトロ Trianon駅内
⑦Grande Megaterio(大ナマケモノ) Domenico Calabrone作 Pamplona通りと Casa Branca通りの間にある。
⑧Cariatide(女性の像) 作者不明 Pamplona通りと Casa Branca通りの間にある。
⑨Anhanguera (アニェンゲラ、バンデイランテ、Bartolomeu Bueno da Silvaの像) Luiz Brizzolara作(イタリアの彫刻家、Teatro MunicipalのよこにあるCarlos Gomes像と同じ作者)イタリアのカララの大理石を使っている。 Casa Branca通りと Peixote Gomide通りの間にある。立派な像。
⑩Monumento A Thomas Edison、 Escultura da Luz(トーマス・エジソンのモニュメント、光の彫刻) Joao Valente と Silvio Dworeckiの合作 1979年、地区の電気製品取扱い業者によって寄贈された。 Praca dos Expedicionariosにある。
(右側にあるもの)
①Espaco Vibracao(バイブレーションのスペース) Yutaka Toyota作 Maria Figueredo 通りとBrigadeiro Luis Antonio通りの間にある。
②Tiras(帯状模様) Franz Weissmann作 Maria Figueredo通りと Brigadeiro Luis Antonio通りのパウリスタ460にある。今一大したことがないモニュメント。
③Disco del Sole(太陽のディスク) Arnaldo Pomodoro作 Joaquim Eugenio de Lima 通りとCampinas通りの間にある。
④Juvenal e o Dragao Madona da Lua (ジュ-ヴェナルと月の竜女) Jose Claudio da Silva作 Campinas 通りとPamplona通りの間。
⑤Quatro Ventos (4つの風) Bruno Giorgi作 Rio Claro通りと Itapeva通りの間
⑥Animal Paulistano(サンパウロの動物) Liuba Wolf作 Peixote Gomide 通りとMinistro da Rocha Azevedo通りの間。
⑦Monumento a Francisco Miranda(フランシスコ・ミランダのモニュメント)
L.Gonzales とCarmelo Tabaccoの合作 Haddock Lobo通りと Bela Cintra通りの間
以 上