日系社会関係委員会の第1回100周年祭典分科会が、18日午前10時30分から、サンパウロ人文研の宮尾顧問を迎えて開催された
日系社会関係委員会(遠藤雅清委員長)の100周年祭典分科会(キックオフミ-ティング)が、18日午前10時30分から商工会議所会議室に15人が参 加、サンパウロ人文科学研究所の宮尾進顧問を迎え、「日系移民の歴史」と題して講演、戦前、戦後の日系移民の歴史、日系社会の実態や現状などについて詳細 に説明した。
遠藤委員長が進行役を務め初めに参加メンバーを紹介、100周年分科会の活動趣旨などについて説明した。
続いて田中信会頭が、日系社会への積極的で惜しみない協力の推進などについても説明、遠藤委員長が宮尾顧問の略歴紹介で講演が始まった。
宮尾顧問は初めにブラジルの日本移民の歴史に触れ、1908年の笠戸丸から1941年の太平洋戦争勃発までの移民総数は19万人に達し、1953年に再開 された戦後移民は7万人であったが、64年の東京オリンピックを境に高度経済成長期に入った日本からの移民は激減した。
戦前移民の大半がコーヒー農園の契約移民で、90%以上がサンパウロ州に入植、民間移住会社の誇張した宣伝文句に踊らされて移住、短期間に一旗上げて故郷に錦を飾る考えの人がほとんどであった。
また契約を終えた日本移民は、自営農として同船者や同県人と集団で安価な土地を求めてバウルー市以西の原始林を購入して開拓していった。
正確な情報が入手できなかった終戦直後のサンパウロ奥地に住む90%以上の日本移民は、日本が戦争に勝ったと思っていた。そして1946年の1年間に勝ち組に暗殺された同胞は25人を数え、1953年まで勝ち組は存在した。
そして焼け野原の上に、食糧難で仕事のない日本への帰国を諦めた田舎に住む日本移民は、子供の教育のために大都会に大移動、言葉ができない多くの移民は、 小資本で始められる商売としてクリーニング店を始めた。1970年にはサンパウロ市内の日系クリーニング店は3,000軒を数え、また小資本と手先の器用 さで美容院を開業する日本女性も多かった。
またサンパウロ近郊に移動してきた移民の多くは、小さな面積で野菜、果物や養鶏場などの集約的農業に従事し、サンパウロの中央市場やフェイラで日銭を稼ぎ、子供の教育に夢を託した。
その結果1990年のブラジルの国勢調査では、日系(アジア系)の大学進学率は21%にのぼり、医者、弁護士や技術者などの比率が非常に高い。
また混血化も急速に進んでおり、今では3世で60%、4世で80%が日系以外と結婚しており、数十年後には日系という言葉が私語になる可能性もある。
民族意識が強いドイツ系、イタリア系や韓国系移民は、自国の文化継承に学校などを経営して本国からも積極的に援助を受けているが、元々島国の日本は外国か ら侵略されることもなく民族意識が弱いが、その血を受継いだブラジル生まれの30万人のブラジル人出稼ぎ集団の中に、相互援助組織など存在しないと解説し た。
1持間に及んだ貴重な宮尾顧問の講演後、昼食を食べながら質疑応答が午後1時まで続き、素晴しい講演に惜しみない拍手が送られ、田中会頭より記念品の贈呈があった。
宮尾顧問はサンパウロ州に生まれ、9才で日本に帰国、信州大学文理学部人文科学科哲学科卒、コチア産業組合編集部勤務後、1965年サンパウロ人文科学研究所創設に参加、同理事、同事務局長を経て1991年から顧問。
参加者は遠藤安田保険社長、田中会頭、多田三菱商事社長、新沼ブリジストン取締役、鈴木ホス建設社長、桜井ジェトロ所長、遠山K.TOYAMA社長、疋田 三井アリメントス社長、般若NEC取締役、今井日清紡社長、宮田住友商事社長、立山住友商事取締役、板垣スリーボンド社長、尾崎東山農産加工副社長、平田 事務局長(順不同)