論評【ジルマと汚職】

セルソ・ミンギ

川の流れるままに任せていたのがジルマ・ロウセフ大統領自身だというのに、汚職対策は「妥協の余地を残さず取り組む」と宣言することに、何らかの価値があるだろうか?

ジルマ大統領が上院及びブラジル国民に対するメッセージとして「汚職対策に取り組み続けることは最も重要」と発表したのと同じ日、連邦最高裁判所(STF)は、汚職捜査において裁判所を妨害しようとしたとして、同大統領の捜査を命じた。

厳粛な文書に記された汚職対策を進めるという約束は、労働者党(PT)やジルマ大統領、ルーラ元大統領らがあの手この手で裁判所の取り組みを妨害しようとしてきたことに対し、どのような意味を持つのだろうか?

単なる絡み合った問題の1本の糸を引っ張り出すのではなく、時間を要するがこれほどの広域にまたがって進められているラヴァ・ジャット作戦の捜査に対して、偏っていて狙い撃ちのようなものだと非難していたのは、ジルマ大統領とルーラ元大統領、PT首脳陣ではなかったか?

2015年6月に司法取引が成立した際、「告発人に敬意を払っていない」として、汚職捜査の重要な手段のひとつ司法取引を拒否したのは、本来なら司法取引法を裁可すべき人物、彼女自身ではなかったか?

そしてラヴァ・ジャット作戦の捜査活動を縮小し阻止する目的をもって、セルジオ・モーロ裁判官が職権を乱用し不公平で権利を侵害していると国連に訴えたのは、ルーラ元大統領ではなかっただろうか?

大統領府において自身の周囲に存在したはずの汚職の兆候と公的資金横領の兆候の一切に対して知らぬ存ぜぬで、就任する以前と同様に川の流れるままに任せていた彼女が、汚職対策は「妥協の余地を残さず取り組む」と発した言葉にどれほどの重みがあるのだろうか?

PTと過去3期の政権で影響力を与えかつ行使したとは言え余りにも子供じみたブラジル左派が抱える矛盾のひとつ、それは、共和制の価値観に対する責務を拒絶する一方で「有産者の制度と原則」と呼ぶものと共存すべしとする、倫理観だ。

これらの左派の人々にとって、プロレタリアート独裁という最終目的だけでなく、彼らが地位を確保、維持するという部分においても、目的は手段を正当化するのだ。それは、公共の機関と組織による占領、国家による資産の「公用微収」、そして、政治的に彼らに有利な決定を保証する目的で議員と裁判官と公務員の買収することを、正当化するものだ。

疑問を呈する人は尽きないだろう。曰く、腐敗している人だけでなくそれを放置する人も有産者ではあるまいか?と。あるいは、そこには富の分配は存在しないのではないか?と。不幸にも、そこで働いているのは別の原理だ。ブラジルの伝統的な政治も同様に、公的資金と個人資金に区別をつけない家産主義という価値観のもと、腐敗しており、今後も腐敗が続く。これこそ、新たな腐敗防止措置が国会に提出されるのを政治家がボイコットする理由である。

こうした左派と同じ思考回路の人々のせいで、汚職対策と公的資金の横領に取り組むと言われても無意味に思えるのだ。同様に、マスコミ、そしてほとんどの法律が目的とするところも有産者であるように裁判所も有産者制度の域を出るものではないだけに、裁判所の妨害だと非難する意見も妥当と思えないのだ。(2016年8月18日付けエスタード紙)
 

 

https://camaradojapao.org.br/jp/?p=42200