2014年の3月は、ブラジルの現代史において重要な記念日で幕を開け、そして幕を閉じた。3月1日はブラジルにとり、レアル計画の立ち上げ20周年を祝う日だったし、3月31日は、これはお祝いではなく心に刻む日なのであるが、21年にわたって続くことになった独裁政権にブラジル国民が屈服させられた、軍のクーデターから満50年を迎えた。独裁政権の終焉からレアル計画が幕を開けるまでには9年の歳月が流れており、この間にはジョゼー・サルネイとフェルナンド・コーロルが政権の座に就いたのだが、極めて無為で、不首尾な、務めて後ろ向きという、我が国にとっては経済的にも政治的にも何ら前進が確認できなかった期間だった。
様々なプロジェクトを政治面から眺めると、独裁政権の成果は惨憺たるもので、彼らが成し遂げたこととは、即ち、二度と同じ過ちを繰り返さないと人々が祈念する対象になるようなものだった。つまり、国会を閉鎖し、政党を解散させ、政治家の権利をはく奪し、反対派を逮捕し、拷問し、殺害した。経済面の災厄は、経済成長に支えられて希釈されたが、所得は偏重し、富裕層は一層豊かに、貧しい者は更に貧しく、貧困が拡大した。軍人たちは愛国主義的に「奇跡の経済」を祝ったが、ブラジル地理統計院(IBGE)が1970年に実施した人口調査は、「所得は拡大したが、その分配は偏っていた」と非難している。今日、この「ブラジルの奇跡」によって生み出された富の70%が、より豊かな、わずか10%の人々にしか分配されなかったと推算されている。
軍事独裁者5人の内3番目に登場したガラスタズ・メディシ将軍は、当時、「景気は好調なのに民衆は苦しくなっている」事を認めた。当時の財務大臣、そして現在はジウマ・ロウセフ大統領の経済顧問であるデルフィン・ネット氏は、この状況について「ケーキを分配するには、先ずは充分に膨らませる必要がある」と言い訳していた。だが、彼が大臣を務めていた間、そのケーキは1度たりとも分配されなかった。インフレも高率で、これが「奇跡の経済」を攪乱した。だがそれも問題ではなかった。それと言うのもデルフィン氏は、インフレを計算に使用していたゼツリオ・バルガス財団(FGV)を除けば誰も尊重しないような、お花畑の想像力を働かせた価格表を発表したからだ。ガイゼル政権になり、マリオ・エンリッケ・シモンセン大臣がこれをご破算にし、無謀なインフレの偽証を告発した。
独裁政権にふさわしいものとして、ブラジルは、原子力爆弾を保有する必要があり、原子力発電所の建設から手始めに推進されたのだが、膨大な負債を生み、リオデジャネイロ州アングラ・ドス・レイスで錆びるにまかされた設備に対して何100万ドルもの資金が失われ、爆弾の幻想は絵に描いた餅になった。今と同様、社会経済開発銀行(BNDES)は、命脈が絶えた企業に助成金をばら撒き、その結果、「病院銀行」の綽名まで付けられた。
デルフィン・ネット氏が経済分野の指揮官として舞い戻った独裁政権最後の5人目の大統領の下では、1982年に国外から多額の借り入れを行い、その金額たるや1,500億ドルに達し(しかも外貨準備高はこの8%にも満たなかった)、モラトリアムに至ると、我が国は深刻なリセッションと所得の圧迫、失業、社会問題の増加に見舞われた。国際通貨基金(IMF)から資金を仰ぐため、デルフィン氏は様々な条件が付与された膨大な趣意書に署名したが、そこに記されたバラ色の約束事が履行されることは一切なく、ブラジルには「駄々っ子の国」という烙印が押されてしまった。
軍事政権の遺産として、サルネイ政権下では公的債務(内債と外債)が極めて悪化し、政権末期には月間85%、年間では5,000%に達するハイパーインフレを招いた。経済の安定に向けて6度に及ぶ計画が導入されたがインフレを鎮静化できず、外債は再交渉されたが内債はひたすら肥大し続けた。数珠つなぎになった紙幣のゼロを取り払い、通貨の呼称を変えても、我が国の通貨は度を失いつづけ、物価は1日に何度も引き上げられ、ブラジル国民は通貨というものの概念を忘れてしまった。
この混乱にブレーキを掛けたのが、レアル計画だった。インフレは落ち着き、統制され、残りの問題の解決にも道半ばまで来た。内債の膨張が止まり、経済安定に向けた規定の順守なき場合には州政府が新たな融資を受け入れることを禁止し、州銀と配電会社を民営化し、厳格に歳出を管理する州政府と市役所の負債を引き受けた。最終的に、慢性的赤字と浪費、不正な持ち出し、汚職と選挙キャンペーンへの公的資金の流用などに繋がる「勝手口」の多くを閉ざした。そして無責任な政治家を処罰する財政法もできた。だがそれは、単なる始まりだった。(2014年4月6日付けエスタード紙)
スエリー・カルダス:ジャーナリスト、リオデジャネイロ・カトリック大学(PUC-RIO)教授